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山本美香さんの死と自己責任論
 

現代メディアフォーラム緊急声明

山本美香さんの死と自己責任論

 

 フリージャーナリストの山本美香さんがシリアの戦場取材中に、シリア政府軍の民兵によって銃撃され死亡したニュースが、オリンピック凱旋ムードに沸く日本列島に、衝撃をもたらした。

 シリアのアレッポという町で、彼女が銃撃されるに至った過程は、マスコミでも詳細に報道されたが、その映像はほかならぬ彼女が自分自身で撮影していたものだった。

 カメラを回す山本さんは、戦場で取材するジャーナリストのイメージにはにつかわしくない、しなやかで奇麗な普通のお姉さんのような姿だった。こんな人がなぜ生死を賭けたハードな戦場に身を置くのだろうか、そんな思いがした。

 女性や子供を見境もなく殺すアサド政権の残虐性は稀に見るものだった。ジャスミン革命やエジプト革命に端を発した北アフリカ革命が最後に飛び火した場所で、アサドはシリアの国民を人質にして虐殺を繰り返し、自分の政権を死守している。

 

 彼女が銃撃された経過はよくわからないが、同行した佐藤記者の談話や各種の残された映像からだいたいの見当はつく。銃撃場所の近辺で死亡したのは、どうやら山本さんだけではないかと考えられる。一緒にいたというパレスチナの記者がシリア政府軍に拘束されたというが、この真偽は不明だ。銃撃したのはシリア政府軍民兵というから、山本さんはシリア政府から単独で狙われて殺害されたことになる。山本さんが撮影したビデオには銃を持った男が、「日本のジャーナリストはどこにいる」とつぶやく不気味な姿が映っている。

 

 自分の手が届かないジャーナリズムを極度に警戒する独裁者がジャーナリストを殺害することはよくある。しかしこれまで、日本人のジャーナリストは、欧米のジャーナリストに比べ、殺害される危険性は少なかった。

というのも、平和憲法を持つ日本は平和主義国家で、中東の戦争には中立の立場を保っていると、欧米に反感を持つ中東やアフリカ諸国のゲリラたちは、日本人には比較的良い印象を持っていたからだ。
 日本が経済大国で金持ちであること、何十年か前には米英を敵に回した大戦争をやったことに対しても、畏敬の念を持っている。

 

しかしアサド政権にはこれが通じなかった。アサドがそれほどジャーナリストを嫌っていたのか、あるいは3.11震災と原発事故で日本という国の立場が弱くなり、もはや尊敬されない国になったという足元を見たからかもしれない。

 

山本さんは独立のフリーのジャーナリストだが、海外に出れば日本を背負ったジャーナリストである。日本の評価はそのままジャーナリストの扱いにもつながる。日本では巨大メディアと威張っていても、海外でその名を知る人はいない。社員であろうとフリーであろうと日本のジャーナリストなのだ。

山本さんが自分の判断でシリア取材をしたのは自由な意思だろうが、国家として山本さんの取材の安全と保護を要求するのは日本政府の役割だ。従って、山本さんの死の責任はシリア政府と日本政府にもあるので、彼女だけの自己責任ではない。この点、日本政府のいう自己責任の考えは間違っている。

山本さん銃撃死でフランス外務省はいち早くアサド政権非難の声明を出したし、アメリカのホワイトハウスも弔意を表した。
 しかし私的政争に明け暮れる日本の政府は、山本さんの死には何の関心も払ってはいない。官房長官がおざなりのお悔やみを述べただけとだと記憶する。
 日本政府はシリア政府に文句のひとつもいっていない。

北朝鮮に拉致された女性ジャーナリストをクリントン元大統領が救出に出かけたのと大違いだ。

 

山本さんがシリア政府軍民兵に狙い撃ちされた疑惑があるのだから、戦闘に巻き込まれて死んだという言いわけでなく、真相を調査究明する義務が日本政府にはある。
 もし日本人ジャーナリストと知りながら狙い撃ちしたのであれば、アサドは国際法に違反する戦争犯罪人になる。

 

山本さんの死は自己責任とする自己責任論が、ジャーナリズムの側からも出ている。これは同業者としては許し難いことである。

しかしシリアという辺境の国の戦争の真実を日本人の目でレポートすることは重要だ。シリア戦争を伝える日本人ジャーナリストは必要だ。戦場は恐ろしい。誰でも行きたくはない。しかしかつて、橋田信介、澤田教一、一之瀬泰造という、いずれもフリーのジャーナリストや写真家が戦死した。彼らは命を犠牲にして日本人の目で見た遠い国の戦場を伝えてくれた。

 とかく日本人は欧米の目で中東やアフリカやアジアを見てきた悪癖がある。日本独自の自立的な視点が希薄だった。欧米のジャーナリズムが伝えるシリア戦争と日本人ジャーナリストが見たシリア戦争の見方は根底から異なるのである。

 

われわれが飼いならされてきた欧米の世界観から抜け出して、自らの自立した世界観を作るためにも、中東やアフリカや発展途上国の事実のレポートは、戦争に限らず必要だ。

 

山本さんは戦争で破壊され命を奪われる女性や子供たちのレポートをかさねてきた。銃弾が行き交う戦場の真っ只中の取材は怖かったことだろう。しかしその恐怖に耐え、戦場を伝え続けた日本で稀有な戦場ジャーナリストだった。

 今になっては致し方ないことだが、山本さんには銃弾の飛び交う戦場のど真ん中から少し距離を置き、戦場で暮らす人々の生活の様子、戦争でいかに生活が破壊されたかを克明にレポートして欲しかった思う。

 

その山本さんの最後の映像には自らの遺体が映っている。山本さんが撃たれて投げ出したカメラを拾って、反政府軍兵士が映した映像とおもわれるが、遺体の映像と共に画面に出てきて、日本のマスコミは遺体を映さない、日本の報道の自由を守れといっている。

これがシリアのために命をおとした彼女に報いる言葉だろうか。反政府軍にしてはあまりにも人の命を軽視し愚弄しすぎている。怒りを覚える。

 

反政府軍の諸君、君たちは山本さんを守ることができなかった。その程度の能力で残虐なアサドを斃せるとでも思っているのか、といいたくなる。

 

確かに日本のマスコミは伝統的に遺体を映さない。それにしてもゲリラたちはなぜそんな事情を知っているのだろうか。それは東日本大震災の報道でも問題になったことだった。議論はあるが、事件のむごたらしさを知るには必要なことでかもしれない。

しかし反政府軍を名乗る諸君にそれをいわれる筋合いはない。日本の報道の自由はわれらが守る。

 

さらに日本の新聞、テレビはこぞって「山本さんの遺志をつごう」といっている。しかし彼女の本当の「遺志」が何かわかっていっているのだろうか。一時しのぎの社交辞令なら言わない方が人間的で誠実である。

 

シリアの戦場に自社の記者を派遣して危険な戦場を報道しようとでもいうのか。そんなことは、規制と自己保身と自粛だらけの今の大手マスコミにできる相談ではない。戦場で命を捨てるかもしれない記者を派遣するなどは論外なのだ。

第一次湾岸戦争時、CNNのピーター・アーネット記者と共にバクダッドに残った経験のある大手テレビ局の知人は、残りたければ会社には一切、迷惑をかけない、という念書を書けといわれ、念書を書いて戦場に残ったと話していた。

 大手マスコミはフリーの命を金で買って、お茶を濁し報道した気分でいるという巷の風聞は間違ってはいない。

 

重要なのは取材上の「自己責任」という言葉だ。この言葉は、何か現地で事故を起こしたり、死亡したりしても本社は一切、責任を負わない。取材の成果は買うが、あとは知らない、というメディア側が言う「自己責任論」である。

フリー記者に自社の記者を出せない危険な取材を依頼し、その成果はコストカットで買いたたく。
 こういうメディア界の風潮が無理な取材行動を生み、結果として事故や生命の危険につながる。山本さんの名誉のために、そうだったとはいわないが、シリア取材はあるTV局の委託を受けた仕事だったという。この場合、山本さんの死の責任はTV局にもある。

 

こう考えれば、記者本人だけでなくメディア側も責任を相互に分散して負う、という取材のルールの構築とフリーの独立性と安全性を高めるシステムを作る必要があろう。

 

山本さんは非常に責任感の強い人だった。大学院で彼女の真摯な講義を聴いた大学院生の女性はツイッターで、「一言一句聞き洩らすまいと必死でノートを取った」という。自己責任論について、山本さんは「仮に記者が死んだ時、社長に責任をとれ」というのは違う。こういう主張をすることで「規制が委縮につながってはならない」と話していたという。

山本さんは自由に取材ができる環境を何より望んでいたはずだ。自己責任で行け、というならそうする。そうでないと、自己保身の規制ばかりが拡大し、何も取材できなくなることを怖れていた。
 実際、福島原発事故では30キロ圏内の立ち入り禁止が法的に実行されたとき、日本の大手メディアはすべてこれにならって、30キロ圏内の取材はできなかった。このため、事故の全貌は分からず、戦時下の大本営さながらの安全神話と虚偽の情報を国民は受け取った。
 外国メディアでは、リビア内戦取材中のジャーナリストらが急遽、フクシマに駆けつけ、法の規制の網をかいくぐって事故の真実のデータを取材して世界に発信した。
 戦場取材に慣れた外人ジャーナリストは、「フクシマ取材は戦場と同じ、現場に記者が行かないでどうする」と語っていた。
 確かに、30キロ圏内立ち入り禁止の法的な根拠は、放射能汚染の危険と住民が避難した後の無人地帯の治安維持のためであり、メディアを規制する目的ではない。
 日本のマスコミは30キロ圏内立ち入り禁止の規制を自分たちにも適用することで、真実の取材をさぼったのだ。

 
 

無用な規制をなくし、ジャーナリズムの環境を少しでも良くし、正しいものにする。それによってジャーナリズムのあるべき価値観を、マスコミもフリーも共有し価値のある報道を作り上げてゆく。それが日本の国を良くする道だ。

自由なジャーナリズムが作る世論が国の根幹を担う社会こそが健全な民主主義の国だ。
 その意味でいえば、真実から逃避するための「自己責任論」が横行し、かつ大手企業とフリーの非人間的な格差を生む日本のジャーナリズムの仕組みは、不自由で抑圧的で歪んでいる。
 こんな現実を改革もできない日本のメディア界からマトモなジャーナリストが生まれるはずもない。


 日本のジャーナリズムにある「自己責任論」という名の規制の解体こそ、山本さんの遺志を継ぐ究極の道だと考える。
 ジャーナリズムは私物や娯楽本意の情報ではなく、成熟を目指す民主主義社会にとって、「公共の知」を提供する唯一無二の知的機関である。今こそ、こういう理論的な原点に立ち帰らなければならない。

 

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